兵庫県姫路市網干区坂上の『禅宗 盛徳寺』ー子授、願い事は、北向地蔵尊へお気軽にお参りください。

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平成24年7月21日 今日は文覚上人のご命日です。

(関連記事がありますのでご参照下さい/文覚上人と福井荘寺院概要・地図

現在、NHKで大河ドラマ「平清盛」が放映されている事から、縁の深い神戸辺では大変盛り上がっている様です。

盛徳寺の創建はちょうど同じ時代でもあり、創建者の文覚上人は平家の滅亡にも関わっています。 ただ、「平清盛」のファンの方には申し訳ございませんが、文覚上人は敵役になりますのでご諒解下さい。

文覚さん(親しみを込めて以下こうお呼びします)は、生まれた年や亡くなった年は諸説有り不明ですが平安末から鎌倉時代にかけての方で、しかも鳥羽天皇の皇女様に仕えた北面の武士だったといいますので、今まさに大河ドラマでやっている平安京のあの辺りにおられたはずです。当然、清盛や西行法師、源義朝などとも顔見知りだったと思います。

文覚さんのその頃のお名前は遠藤盛遠といいましたが、その出家の原因となったのが有名な袈裟御前との話で、文覚さんの直情的な性格がよく表れています。(有名な話なので興味のある方は調べてみて下さい。)この事件により大変悔やんだ文覚さんは殺めてしまった袈裟の夫に自分を殺してくれと言いますが、無常を感じた袈裟の夫の説得もありその場で髪を落して文覚と名乗りました。

ここから文覚さんの修行が始まります。文覚さんは生来の直情的な性格が手伝ってか出家後の発願心がものすごくありました。最初の3年間は念仏をして袈裟の菩提を弔い、その後那智の滝の荒行に代表される命にかかわる程の行を修しながら全国を回りました。そして、この頃から京都神護寺など弘法大師縁の寺院の復興の大願をたてた様です。

盛徳寺の創建は応保2年(1162)の事だったといいますので、この各地を回った時にこの辺りを気に入って盛徳寺を建てたのだろうと想像します。

さて都に戻った文覚さんは早速後白河法皇に神護寺復興の寄付をする様に訴え出るのですが、この頃は政治力もまだ無く、法皇に不敬を働いたかどで静岡県の伊豆に流されてしまいます。

この時知り合ったのが同じく平治の乱で流されていた源頼朝です。
この時にきっと北面の武士だった時代に頼朝の父親の義朝や平清盛の事を見知っていた事が役に立ったのでしょう。どこぞで拾ってきたシャレコウベを義朝だといって、頼朝に平家打倒の決意をさせたといいます。

1178年に文覚さんはやっと許されて都に戻ってきますが、この後、法皇と頼朝との連携の仲介役を務めるなどして政治力を蓄え、何度かの請願の末やっと神護寺復興のためのいくつかの荘園を法皇から寄進させる事に成功します。

その中の一つがここ播磨の福井荘(姫路市網干区、勝原区、大津区、太子町の一部)です。もしかしたらあらかじめ盛徳寺をここに建てていたのは、最初から肥沃なこの地を法皇から貰い受けるために目星を付けていたのかも分かりません。
盛徳寺に遺されている「文覚上人遺愛の石」は大きめの那智黒ですが、文覚さんが那智の滝で拾われてご自身のお守り石にして非常に大事にされていたといいます。また「文覚上人像」も自ら彫られたと伝えられていますが、上半身裸で杖をお持ちになっている事から荒行の様子を表しているのかなと私は思っています。
文覚さんはこの様に大事なものをここに遺されている事からこの地を非常に重要視されていたという事が分かります。
この地の民衆からしてみれば、土地の発展に尽くされた文覚さんは本当に有難いお方で、文覚さんがこの地を去られてから数百年後の世でも大切にこれらを守ってきたのは、文覚さんに対する感謝の念が強かったのだと思います。

福井荘にはいくつか水源がありますが代表的なもので網干区には福地河原(ふくじごうら)から文覚さんが梵寺型に用水路を切り開いて開発していったといいます。
また勝原区や大津区への水源は福井之大池というため池がありますが、この池はとなりの太田荘にあり絶えずトラブルの種になっていた様です。文覚さんの時代もやはりトラブルがあり、太田荘側が大池を埋め立ててわずかの田を作ろうとします。しかし既にこの時点で大池が福井荘の水源となって400年以上経っている上に、わずかの田のために当時170丁の田を干上がらす事になるため文覚さんは非常にお怒りになります。そこで抗議の手紙を荘官の上司に宛てて出すわけですが、これが怒り冷めやらぬ直情的な文覚さんの面目躍如といった文章で、「現地の荘官は兄さんの妻を横取りしたともっぱらの噂だが、我々の水を盗んだ事を思えばどうも本当だろう」と罵倒しています。結果、大池は埋め立てられる事はなく、守る事ができました。
この様にして文覚さんはこの地の発展の礎を築かれ、神護寺の復興も成し遂げる事ができました。

文覚さんを語る時は、私も含めてよく性格の激しさを強調して語られる事が多いのですが、その根底にあるのは仏法を守り民衆を安んじたいという一心であったかと思います。袈裟を殺めてしまい悩みに悩み抜いて後悔する。殺された袈裟にはいい迷惑だったかも分かりませんが、それを大発願心に転換させた袈裟の夫とそれにしっかりと答えた文覚さんはやはり偉かったと思わずにはいられません。
後に仏法の敵とあれほど憎んでいた平清盛のひ孫の命乞いを、頼朝とぎくしゃくしながらも熱心に嘆願した事からも文覚さんの心情を窺い知る事ができる様な気がします。

文覚さんの晩年は大変寂しく再び配流され亡くなられました。諸説ありますが、盛徳寺では55年程前から神護寺様の見解を受け、建仁3年(1203)7月21日を命日としています。

(写真は文覚上人のページからの転載です。)