禅宗 盛徳寺

兵庫県姫路市網干区坂上の『禅宗 盛徳寺』ー子授、願い事は、北向地蔵尊へお気軽にお参りください。

播磨灘を望む穏やかな播州の一角。
北に朝日山を仰ぎ、
西に揖保川が滔々と流れ、
作物は豊かに稔り、人々はのびやかに暮らす、
かつて「福井荘(ふくいのしょう)」と呼ばれた荘園がありました。

現在の揖保郡太子町南部から姫路市勝原区、網干区、大津区にまたがる広大な地域で、
魚吹津(うすきづ)とか魚吹原(うすきはら)とも呼ばれました。

播州坂上(さかのうえ)の『盛徳寺』はおよそ850年前、平安時代末期の応保2年(1162)の創建で
福井荘の発展に尽くされた文覚上人(もんがくしょうにん)の開基の寺と伝えられます。

小さな寺ですが、この地域では 一番古いお寺で、福井荘の政所でもありました。
往時をしのぶ「文覚上人像」と「文覚上人遺愛の石」を祀り、「文覚寺」の別名でも呼ばれています。
  • 門前 由緒説明板 全文

    心光山 盛徳寺(文覚寺)  臨済宗妙心寺派  網干区坂上
    SEITOKUJI TEMPLE (MONGAKUJI) 

    平安時代末期、応保2年(1162)の創建で文覚上人開基の寺と伝えられる。 往時をしのぶ「文覚上人像」と「文覚上人遺愛の石」を祀り、「文覚寺」の通称で呼ばれる。
    文覚上人の俗名は遠藤盛遠といい北面の武士だったが、故有って出家し文覚と名乗り那智の滝で荒行を修した。上人は鎌倉幕府の成立に関わり、京都神護寺の再興にも努めた。また、この地にあっては福井之荘の水利の整備を行い人々の生活の礎を築いた。この寺は福井之荘の政所で長徳寺といったが、上人の没後は荘園の政所としての役を失い廃寺となっていく。
    元禄年間(1688~1704)、網干の豪商佐々木家の尽力で坂上長徳廃寺を蒙山祖印禅師が中興し、寺号を盛徳寺と改めた。蒙山祖印禅師は網干岡部家の出身で、浜田の盤珪国師の弟子であった。禅師は文才に優れ、盤珪国師の伝記としては江戸時代唯一版本となった『盤珪和尚行業記』や魚吹八幡神社の銅鐘に神社の詳しい由来を交え銘文を記すなど地域に大いに貢献した。
    その後、住持が途絶えた時もあるが、文政3年(1820)坂上村庄屋・三輪六右衛門が田地を寄進し、新たに住持を迎えている。
    明治7年(1874)、江戸時代最後の住持が亡くなると、維新政府の寺院抑制の政策により無住無檀のため廃寺となる。しかし、明治29年(1896)宍粟郡にあった「心光庵」の名のみを移転する形で再中興され、前川義柱尼が初代尼僧住職となった。昭和17年(1942)、盛徳寺の旧号に復し現在に至る。

    平成21年2月    姫路市教育委員会、網干地方史談会

  • 東日本大震災 義援金募金の御礼

    盛徳寺では、これまで臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺と臨済宗妙心寺派兵庫教区の呼びかけに応じ、平成23年3月11日発生の東日本大震災の救援金・義援金の募金活動を募金箱設置などを通じ行ってまいりました。おかげさまで、平成24年1月10日現在106,435円もの募金が寄せられました。お寄せ頂いた募金は全額、大本山妙心寺に直接、又は臨済宗妙心寺派兵庫教区を通して送金致しました。
    ここに、募金にご協力頂いた皆様に、ご報告方々御礼申し上げます。

    なお、臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺では、引続き募金活動を行っています。
    詳細は、臨済宗妙心寺派 大本山妙心寺のHPをご覧下さい。

  • 東日本大震災 義援金 街頭募金の御礼

    盛徳寺の所属する「臨済宗妙心寺派 兵庫教区」では、私たちにできる支援の方法のひとつとして、震災1ヶ月の節目の4月11日、JR三宮・姫路両駅周辺の数か所で、義援金募金の呼びかけを有志の僧俗共に街頭にて行いました。
    盛徳寺も、これに協力参加致しました。冷たい風と激しい雨の中にもかかわらず、道行く皆様には合わせて321,912円もの募金をお寄せ頂き、全額を日本赤十字社に預託致した旨、兵庫教区より報告がございました。
    誠に有難うございました。

盛徳寺からのお知らせ

2011年7月  盛徳寺のHPをリニューアルしました。
2008年5月  盛徳寺のHPを開設しました。
  • 盛徳寺へのアクセス

    盛徳寺へのアクセス

    【所在地】
    〒671-1223 兵庫県姫路市網干区坂上292
    【TEL】
    079-272-1696
    【交通・アクセス】
    山陽電気鉄道網干線「山陽網干駅」下車 徒歩約15分

    ※道が分からない場合は、ご案内させていただきますので、
    お気軽にご連絡ください。