兵庫県姫路市網干区坂上の『禅宗 盛徳寺』ー子授、願い事は、北向地蔵尊へお気軽にお参りください。

歳時記
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歳時記

平成20年10月5日 達磨(ダルマ)忌です。

10月5日は禅宗初祖の達磨大師のご命日です。

私たちは達磨大師と言えば、粱の武帝との問答の中での「不識(ふしき)」(※)という言葉を思い起こすのですが、世間では起きあがりこぼしの願掛けのダルマさんと共に「不倒」という言葉を思い浮かべる方が多いかと思います。

達磨大師は、南インド香至国の第3王子としてお生まれになったと伝えられ、後に出家されお釈迦様の法を受け継がれて28代目の祖師・・・西天(西方天竺=インド)二十八祖となられました。

 
その後、中国へ渡られ禅を伝えられたという事で中国禅宗の初祖と称えられました。

当時の中国は、後世に五胡十六国と呼ばれた乱世の時代でした。
中国で最初に渡られたのが、粱という国でした。しかし、そこでの武帝との問答でまだ縁のなかった事を悟られた達磨大師は、北方の魏の嵩山に移られます。
 
嵩山では「面壁九年」と呼ばれる座禅三昧の生活を過ごされ、後を継がれるお弟子さんも育てられています。
当時の中国仏教界で主流だったのは、戒律を重んじる律宗と教義を理論的に研究する教相家と呼ばれる人々でした。
そんな中で達磨大師のスローガンは、経論に依らず、体験によって直に見性し伝えていくとても斬新なものでした。
当時の仏教界にはとても衝撃的で、主流派は大変な危機感を抱きました。 そして彼らは達磨大師に何度も毒を盛るという挙に出たのです。
達磨大師はその度に息を吹き返しました。しかし6度目に毒を盛られた時、ついに達磨大師は力尽きてしまわれたのです。 528年の事でした。

ご遺体は熊耳山に葬られましたが、頃同じく、中国の使いが西域から帰る途中に葱嶺というところで片方の履(くつ)をもたれた達磨大師に出会われたのです。
どちらへ行かれるのかお聞きしましたら、西天に帰ると答えて行ってしまわれました。
使者はこの事を国に帰って当然報告するのですが、果たして達磨大師のお棺を開けてみると、ご遺体はなくもう片方の履だけが残されていたという伝説があります。

私たちが親しみをこめてダルマさんとお呼びしている達磨大師は、まさに「不倒」・・・「七転び八起き」しながら、法を伝えていくという熱い思いを叶えられたのです。

今日は、そんな大恩ある達磨大師・・・「初祖菩提達磨円覚大師大和尚」を偲び心をこめてご回向いたします。
 

  ※「不識」   最初に粱の武帝は、自分は沢山の寺を建て仏教を厚く保護をしているがどのような功徳があるのかと達磨大師に問われました。達磨大師は「無功徳」・・・功徳などないと答えられ、更に仏法のありがたい事とは何かという問いに「廓然無聖(かくねんむしょう)」・・・カラッとして何もない聖も凡もないと答えられました。 そして最後にお前は誰かと問われ「不識」・・・知るものかと答えられたのです。  

平成23年6月3日 シチダンカが咲いています。
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