その文才は盤珪国師の弟子の中でも随一であったといわれ、盤珪国師が亡くなられた時には請われて盤珪国師の骨函に銘文を記されています。
蒙山祖印禅師は、盤珪国師を厚く尊崇し、盤珪国師の言行を後世に遺す事を志されます。 しかし、盤珪国師を語り尽くすには、あまりにも盤珪国師は大海の如く果てしなく広く深い無尽蔵な存在でした。
その為、自分がそれを文字に著す事に相当の葛藤もあった様ですが、その願心は誠に切実で、ついに『盤珪和尚行業記』となって結実します。 それは、盤珪国師の亡くなられた翌年の元禄7年の事でした。
蒙山祖印禅師は、それから11年後の宝永2年(1705)に51才で亡くなられますが、その死の直前になって初めて兄弟子の節外祖貞禅師にこの書を披瀝し跋語を求められています。
そしてまさに死に際に弟弟子の石霜恵潭禅師(歳時記/大洲 如法寺参照)に、ご自身の心情を吐露され、この書を託されました。
このお二人は共にこの書に対し最大の賛意を示されています。
盤珪国師の50年忌も迫った元文5年(1740)、ついにこの書は石霜恵潭禅師によって世に問われます。この『盤珪和尚行業記』に触発されるかの様にいくつかの盤珪国師の行業物が著されますが、江戸時代に版本となったものは結局この書だけでした。
禅宗では、あまり文筆に頼る事を是とはしませんが、盤珪国師から法を伝えられて12代目の巴陵孜勤禅師は盤珪国師と蒙山祖印禅師の150年遠諱にそれぞれ冒頭の一節を高らかに偈に唱え、その功績を称えられています。